今日は小田原発会講演会。出席者多数のため、午前の部も作りました。朝、昼 とやるため、いつもの生活パターンを崩し、夜寝ました。五時半に起床。 一日、元気にしゃべりまくるでしょう。 そのかわり、終わったら一目もはばからず寝てしまうと思います。 よろしく。
九月号は昨日発送。まだ着いていないでしょうが、額田王をみつけた私の興奮の文章が出ています。23頁ありますが、まだまだ足りないような……。 興奮しすぎて、文章が書けず、20回書き直してこの程度。これは本にするので、なお、50回くらい書き直すことになるでしょう。もっとも最近はパソコンで消したり直したりが自在にできるので、昔の書き直しほどの労力はかかりません。昔の散文家はほとんどみんな自殺していますが、あれは書き直しの悲惨な苦労の積み重ねで、生きるのが面白くなくなったためです。 それで最近は、散文家も自殺しなくなって、むしろ寂しいくらいですが、尊敬される散文というのもこの頃は、ありませんねぇ。 死ぬくらいの苦労がないと、文章に暗い照りが映えないのでしょうか。
「額田王を十三巻にみつけた」は、「万葉集の始まりをみつけた」というくらいの意義があると思います。これは、自由律側の感覚から万葉集を見て初めてわかったことですから、五行歌は必然的に生まれたものと言えると思います。 五行歌をみつける者(私)がいなくては、額田は見えなかった、ということです。五行歌の発見は、自然な日本語とうたびとの精神の発見と同じくらいの意味を持っていたと──!
それくらい、発見した額田王の内容が凄い!
天地に 言満てて (あめつちに ことみてて)
です。天地にあふれるほど言葉を満たして恋しても、あなたは帰って来ない。この声は、千三百四十三年後の本駒込に届きました。
これによって、柿本人麻呂の仕掛けも見えてきました。額田王と柿本人麻呂はすごい人たちで、聖徳太子が亡くなって、十年後に額田王は生まれています。その十八年後に人麻呂は生まれています。七世紀の人たちのほうが現代の人たちより元気だった、と感じます。
歌のフレーズが凄い。五行歌のフレーズも凄いですけどね。
一番に愛される 存在でありたいと 私でさえ思う。 ましたや 子供なら 山野さくら
私はこの歌に人類全部のすすり泣きを感じました。今月の表紙歌です。まだ妄想の中にあるえんたです。
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